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松江への遥かな道程
大層遠い、遠い旅をしました。今ここにこうして煙草をふかしています。旅をしたのが本当ですか、夢の世の中・・・
これは小泉八雲が心臓発作により54歳で急逝した日の朝、妻セツに語った前夜の夢の話である。まさに八雲は、幼少期から地球を半周するような長く遠い道程を彷徨い、日本に、そしてついに生涯の伴侶となるセツの住む松江にたどり着いた「旅人」であった。
八雲の旅のはじまり
小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn)は、イオニア海に面した風光明媚なギリシャ・レフカダ島で1850年に生まれた。ミドルネームのLafcadioは、「レフカダっ子」という意味である。
八雲の父チャールズは、英国陸軍医として赴任していたアイルランド人で、母ローザはギリシャ南部・キシラ島の旧家の娘であった。父はまもなく英領西インド諸島に配属替えとなり、残された母と八雲は、彼が2歳の時に父の故郷アイルランドに移り住むことになる。
両親との永遠の別れ
アイルランドでの生活は二人にとって苦渋に満ちたものだった。やがて母は宗教や文化の違いなどから心と身体を病んでギリシャに帰国してしまい、二度と再び八雲と会うことはなかった。
資産家だった大叔母のサラ・ブレナンに引き取られた八雲は、孤独とダブリンの陰鬱な冬の気候、幽霊などの幻想に苛まれ続けた。父は再婚し、新しい家族とインドに赴任していった。そしてその9年後、帰国途上で病死してしまう。
大叔母の意向で進学したイギリスの神学校では事故で左目を失明する。厳格な宗教教育にも反発を感じるようになり、大叔母の破産によって中退。かつての使用人を頼ってロンドンに移り住む。未来への希望もなく市内を放浪する日々を送ったが、19歳の時に一大決心をしてアメリカに渡った。
最初に暮らしたシンシナティでは親戚に厄介払いされて天涯孤独と赤貧を味わうが、終生父のように慕ったヘンリー・ワトキンと出会い、彼の営む印刷所での仕事を得る。拠りどころを得た八雲は、図書館で世界中の文学作品を読み漁って文学修行をした。新聞社への投稿を続けるうちにその文才を認められ、やがて記者として活躍するようになる。この頃混血女性のマティと恋に落ち結婚するが、二人の愛情は長続きせず、まもなく破局を迎える。
27歳の八雲は、新天地を求めニューオリンズに向かい、再び記者の職を得る。八雲の才能を慕い、彼の没後に英語による伝記を執筆することとなる職場の同僚、エリザベス・ビスランドとの親交を深めた。
日本との出会いと憧れ、そして松江へ
1884年のニューオリンズ万国博覧会では、日本政府の服部一三(いちぞう)から日本の文化や工芸などについて説明を受け、日本への関心を深めた。やがて作家となる決意を固めた八雲は、取材で訪れたカリブ海の島マルティニークでクレオール文化に傾倒し、現地の人々と深く交流しながら2年間を過ごす。
ニューヨークやフィラデルフィアでは、マルティニーク関連の小説や紀行文を出版し、バジル・ホール・チェンバレンが英訳した『古事記』を読んで、日本への憧れを強く抱くようになった。
1890年4月、出版社の特派記者として画家のウェルドンとともに船で太平洋を横断し、横浜に到着する。街を彷徨う中で日本の魅力を五感で感じ、すっかり日本を気に入った八雲は長期滞在を決意。40歳となった八雲は、ついに『古事記』に描かれた「神々の国」出雲の地に、英語教師として赴任することとなった。
神々の国の首都・松江
1890(明治23)年8月30日、汽船で宍道湖に程近い大橋川沿いの船着場に到着した八雲は、対岸の富田旅館に投宿した。まもなく赴任先の島根県尋常中学校教頭・西田千太郎の訪問を受け、以後深い親交を結ぶ。富田旅館は、当時松江の最も賑わいを見せていた地域にあった。そこで見聞きした活気ある人々の暮らしや宍道湖を始めとする美しい風景については、代表作の一つである『知られぬ日本の面影』に収められた『神々の国の首都』に詳しく描かれている。
八雲が松江の景観を気に入った背景について、八雲の曽孫であり、旧居に隣接する小泉八雲記念館館長の小泉凡氏は以下のように述べている。
(八雲が生まれた)レフカダと松江は、堤防や砂州によって外海から隔たれた「潟」の風景としての共通点がある。いずれも西側に海があるため、靄が立ち込めたような光景も共通している。ハーンが宍道湖の風景を愛したことは、記憶以前の原風景としてのレフカダ の風景を重ねたのだろうか。
松江での第一、第二の宿
9月2日に尋常中学校に着任した八雲は、第一の宿となった富田旅館に暫く滞在する。その後11月中旬までに、旅館から程近い場所にあった織原邸の離れ座敷に居を移した。いずれも大橋川に面し、東には大山、西には宍道湖を望むという、水辺を愛する八雲にとって好立地の宿であった。
明けて1月の極寒時には、風邪を引いて二週間近く寝込んだこともあり、富田旅館のお信の仲介で、士族の娘小泉セツが身の回りの世話をするために雇われ、生活を共にするようになる。眺望がよく、小じんまりと風情のある織原邸だったが、天井が低く、セツと二人暮らすには手狭だった。やがて夏の近づく頃、二人は松江城のお濠端にある武家屋敷で、当時留守宅となっていた根岸邸に転居することとなる
八雲が松江での最後の五ヶ月間をセツと過ごしたお濠端の家
蛙、蝶、蟻、蜘蛛、蝉、筍、夕焼け。これらはセツがのちに八雲との日々を回想した『思ひ出の記』に記した「八雲の一番のお友達」である。 八雲は、松江城の北縁に建つお濠端の家で、こうした愛するものを眺め、その声を聴くのを楽しんでいたことだろう。僅か半年に満たないこの家での暮らしだったが、『知られぬ日本の面影』に収められた『日本の庭にて』には、庭に在るものや棲むもの、訪れるものへの、八雲のあたたかい眼差しが溢れている。それらを観察し、ふれ合うことを通して思いを馳せた、日本人の自然観や精神文化について、その鋭敏な感性に裏打ちされた豊穣な文体で綴っている。
お濠端の家の歴史
八雲の松江最後の住まいとなった根岸邸(2018年に松江市の所有となる)は、松江城北側の内濠沿いに延びる「塩見縄手」と呼ばれる街路に面した、北堀町315番地にある。周辺は現在、松江市の伝統美観保存区域になっている。
歴代の松江城下図には、この屋敷地に江戸初期から居住者のあったことが見える。現在の建物の創建時期については遅くとも享保年間(1716年〜1736年)と伝わるが定かではない。その後数軒の先住者のあったことが窺えるが、1850(嘉永3)年に根岸家の所有となった。
根岸家は松平家初代松江藩主である直政公の越前時代からの家来で、来松当時は禄高100石であった。奥谷町にある萬寿寺近くに居を構え、8代目小舟(しょうしゅう)の時まで住んでいた。その後9代小石(しょうせき)の時にこのお濠端の家に移り住む。当時の敷地は約500坪、建て坪は平屋で約60坪を数えた。周辺は当時、中級武士の住むエリアであり、小石は何らかの功を賞せられたのか380石を得るようになっていた。
小石は「景色の良いのは家中屋敷中にも稀に見るところ。向かい側の堀端に家は一軒もなく西側前方は家の前の松並木を隔て、新橋、稲荷橋から城山の翠濠を眺め、東側は遥か霊峰大山を望み、裏手の北には真山(山中鹿介城址)白鹿の連山の景を賞す。井戸には清水が豊かに湧き・・・」と、良い家を得た大きな喜びを記している。
明治に入り、代は10代の干夫(たてお)に移る。この時期に、それまで茅葺きであった屋根が桟瓦葺きに改められ、庭にも大きな改造が加えられた。その後、干夫は1882(明治15)年に神門郡郡長として家族と共に出雲今市に居を構えたため、この家は留守宅となっていた。
八雲とセツの入居とその後
第二の宿・織原邸を手狭に感じ、できれば広い武家の屋敷に移りたいと望んでいた八雲の思いを受け、セツは小泉家と古い姻戚関係にあった根岸家に話を持ちかける。下見に来た八雲は大層気に入り、この留守宅を借り受けることとなった。二人は1891(明治24)年6月22日に女中と子猫を連れて入居し、11月15日に熊本に旅立つまでの約5か月間をこの家で過ごした。
八雲はその後一度だけこの家を訪れたことがある。それは彼が神戸に滞在していた1896(明治29)年の夏のことであった。セツとの法的結婚と帰化の報告もあって、家族とともに松江を訪問した折で、八雲は「我が家に帰りました」と懐かしそうに家の内外を眺め、ゆっくりと2時間を過ごして帰途についたという。
この時、干夫は八束郡長となり松江に戻ったばかりであったが、役目柄、家が手狭になったため、その後、池を埋めて建て増しをしたり、内部を改造して押入れや廊下などを新たにつくっている。
干夫の長男で11代の磐井(いわい)は松江中学校から八雲が教鞭を執っていた熊本の第五高等中学校に進み、東京帝国大学を卒業して日本銀行に勤務していた。やがて『知られぬ日本の面影』を読み、自分の生まれ育った家と八雲との深いつながりや、「私はすでにこの家が少々気に入りすぎたようだ」とまで記していたことを知る。1913(大正2)年には当時の松江銀行に常務取締役として招かれ、帰郷してこの家に戻ることとなった。
磐井は銀行の重役として、地域の経済発展のため農業・漁業の振興に取り組む傍ら、1915年(大正4)年、八雲に直接に教えを受けた人たちを始めとする関係者とともに、松江で「八雲会」を結成した。毎年「ヘルン先生」の命日である9月26日には座談会を催し追悼した。また、この会を中心に小泉八雲記念館建設運動が展開され、1934年(昭和9)年には小泉八雲記念館が設立されるなど、八雲の顕彰と旧居の保存活動に尽力した。しかし、磐井は記念館の開館を見ることなく、前年の3月に肺炎で急逝してしまう。
旧居の公開は1920(大正9)年から始まった。これまでは八雲とセツが主に使っていた西側の6室のみが公開されてきたが、現在全室公開に向けた検討と準備が進められていると聞く。
1940(昭和15)年8月には、旧居が国の史蹟指定を受ける運びとなったが、1964(昭和39)年の大水害の際には、屋敷のすべての建物が床上浸水の被害に遭った。その後、建物の老朽化が顕著となったため、1982(昭和57)年から丸2年をかけ、国庫補助事業として大規模な修理工事が行われた。その結果、現在のような、八雲とセツが暮らした1891(明治24)年当時の姿が復元されたのである。
旧居は2018年(平成30)年に松江市の所有となり、代々根岸家が担ってきたその管理は、現在は一般社団法人となった八雲会に委託されている。
八雲が愛した日本の庭
1983(昭和58)年の暮れに旧居の大修理が終わった頃、のちに12代当主となってこの家の管理を担っていくこととなる根岸道子氏は、文化庁から「中級の武士の家が現代まで昔のままに住み続けられているのは日本でここ一軒」と告げられ誇らしく思ったと、著書『お濠端に暮らす』の中で回想している。また、1996(平成8)年に来松した大江健三郎氏は、「旧居と云うものをこんなに美しく保存されているのを初めて見て感激した」と話したという。
八雲は、かねてより武家の屋敷に住みたいと願っていたこともあり、この家の風格ある上品な造りを大層気に入ったが、それにも増して彼の心を強く捉えたのは、その美しい庭であった。
小さいながらも、純粋に日本庭園(枯山水の観賞式庭園)として評価の高いこの庭をつくり上げたのは、幕末から明治の世を生きた、根岸家10代目の干夫とその父小石である。共に風流人であった二人は、力を合わせて思うがままの庭づくりを行った。こうして山水の自然な風景を見事に絡めてつくり上げた庭こそが、八雲の書いた「日本の庭」である。
2002(平成14)年頃にイギリスのテレビ局のクルーが取材に訪れた際には、『知られぬ日本の面影』を片手に読みながら庭を眺め、「同じだ。100年前と変わっていない」と驚いていたという。このページに載せている写真と八雲の文章を見比べれば、現在もなおそのようであることがご納得いただけるであろう。
旧居の庭の植物
庭の植物名が根岸氏の著書に詳しく記されているので、南側および西側の庭についてご紹介する。
南側の庭 (八雲の好んだ)サルスベリ、松、スダジイ、ユズリハ、タブ、三種の椿、サザンカ、イヌマキ、キンモクセイ、モミジ、ボケ、ユキヤナギ、ハギ、シモツケ、バイカウツギ、ツツジ、コデマリ、ヒイラギ、シャガ、アジサイ、ツワブキ、水仙、シラン、イチハツ、ツユクサ、カンゾウ、カワラナデシコ、コギク、シャクヤク、キキョウ、コケ、ミヤコワスレ
西側の庭 シイ、イヌマキ、コウバイ、ハクモクレン、ボケ、シキミ、トベラ、モッコク、ナンテン、ハコネウツギ、ムベ、笹、シダ類、ハラン、サギソウ、ヤブコウジ、マンリョウ、マユミ、アマドコロ、シャジン、シモツケ、シイの幹にピンク色のセッコク
なんと豊かな植生であろうか。これらは著書の書かれた2005(平成17)年当時のものであるが、現在も大きく変わってはいないと思われる。八雲は『日本の庭にて』で樹木のことについては詳しく書いているが、草花については余り触れていない。根岸氏は、「庭の草花はとても百年も同じものがあるとは思えないので、私は季節に咲く日本の花々を選んで育てている」と記している。
旧居の庭と八雲の心の共鳴
この庭のことを書いた八雲の文章を初めて読んだ時の驚きを、根岸氏は次のように回想している。
それは居間や書斎など三方から眺める五十坪位の小さな庭の石の観察から書き起こしている。この庭に棲む蛇やカエルなどの小動物、飛んでくる小鳥、昆虫、池の中の生物など有情のもの、さらに無情のもの、また木など植物のそれぞれが持つ伝説・寓話等で、日本人の私が知らなかった事までを延々と書かれているのでとても恥ずかしくなった。
まったく同感である。
氏が改めて驚いたその文才はさておき、前述の通り八雲は『日本の庭にて』で、この小さな庭から見えてくる、日本の自然と人々の暮らしとの関わりを紐解きながら、ささやかな精神文化論とも言える論考を展開した。その背景にあったものは何だろうか。
日本の古い庭園がどのようなものかを知った後では、イギリスの豪華な庭を思い出すたびに、いったいどれだけの富を費やしてわざわざ自然を壊し、不調和なものを造って何を残そうとしているのか。そんなこともわからずに、ただ富を誇示しているだけではないかと思われたのである。
八雲は、旧居の庭に「日本の風景が生き生きと美しく縮小され、再現されている」ことを見い出し、人工的な西洋の庭園の姿に、急速に世界を覆い尽くそうとしている近代物質文明へのアンチテーゼを再認識しているように感じられる。
日々の暮らしの中で、この庭の有情・無情のものたちを静かに見つめ、ふれ合ったことが、その思いをさらに確かな輪郭あるものへと昇華させていった。やがてそれが、自然のものへの慈しみと、それらが秘めている霊性に対する畏怖とに基づいた、日本人の自然観や精神文化への共感と礼讃につながっていったと想像される。
その思索の彼方には、小泉凡氏の言う、松江独特の「暗さを含んだ明るさ」のある風景が広がっていたのかも知れない。それが不遇な生い立ちの中で味わった深い孤独と赤貧、妖精や幽霊など異界のものとの関わりなどを通して形づくられた、八雲の内面的な「陰」と深く響き合ったことが、少なからず影響していたのではないかと思われるのである。
北側の庭の蛇と蛙
八雲は、書斎に面した旧居北側の庭も大いに気に入っていた。この庭には小さな池があり、八雲の入居以前から蓮が植えられていた。その成長過程を見届けることができるのはこの上ない喜びであると綴っている。上の写真の撮影は5月中旬だったため、まだ浮葉が広がっている段階だが、八雲が入居した6月下旬には、おそらく水盤のような立葉の間から大輪の花を咲かせ始めていたことだろう。
この池では夏になると驚くほどたくさんの蛙が声を競っていたが、天敵の蛇もまた数多く棲んでいた。八雲は「蛇はこちらに悪意がなければ決して悪い事はしない」と言っていたものの、その犠牲となった蛙の、断末魔の悲しそうな鳴き声をいたく憐れんだ。「あの蛙取らぬため、これをご馳走します」などと言って自分のお膳のものを与えたとセツが回想している。
旧居でのふたりの暮らし
お濠端の家には、大橋川に面していた織原邸のような美しい眺望はなかった。八雲はこの家の造りそのものについては多くを語っていないが、高い塀に囲まれた「隔離された環境」と嘆く一方で、前述の通りそのゆったりとした上品な造りをとても気に入っていたようであり、セツも同じ思いを書き綴っている。
この家に長く暮らし、その保存管理に心血を注いでこられた前出の根岸道子氏によれば、八雲が書斎として使っていた北側の部屋は、この家に移り住んだ9代の小石が、自分の居室とするために色々と工夫を凝らし、茶室に準じた風情のある部屋に仕上げたものだという。
上の写真の、書斎東側にある6畳間は、元は仏間であったものを改造し、セツの部屋として公開したものである。
八雲は学校から帰宅すると、まず和装に着替え、庭に面した縁側の日陰にしゃがみ込む。厚く苔蒸した古い土塀が街の喧騒を遮り、鳥や蝉の声、池に飛び込む蛙の水しぶきが彼の一日の疲れを癒した。
八雲は食べ物も日本風を好んだと言われるが、家では西洋のものもよく口にした。松江には、当時の日本海側の都市としては珍しい毎朝の牛乳の配達があり、ビステキ(ビーフステーキ)を出前してくれる腕利きのコックもいた。夕食時にはビールを2本飲み、飲み残した時は、書斎でお気に入りの和菓子と庭の景色を肴に、続きを愉しんだと伝わる。
40年近くにも及ぶ長く遠い旅路の末に手に入れた、この家での安らかな落ち着いた暮らしを、八雲は心から喜んでいたことだろう。そのことは、前掲の通り、『日本の庭にて』のおわりに「私はすでに自分の住まいが、少々気に入りすぎたようだ」と綴っていることからも伝わってくる。
その背景には、伴侶となったセツの存在があったことを忘れてはならない。セツは八雲の身の回りの世話や来客の応対に日々細やかに心を配っていた。初めは住み込みの世話係として共に生活するようになったセツだが、この家での暮らしを通してハーンと深く心を通わせるようになっていった。
長谷川洋二氏は、著書『八雲の妻|小泉セツの生涯』でそのことに触れ、次のように記している。「セツがハーンから真に愛されるようになっていったことは、ハーンがチェンバレンに宛てた七月二十五日付の手紙の中で『日本の女性は何と優しいのでしょう。日本民族の善への可能性は、この日本女性の中に集約されているようです』と書いていることにも窺える」。
おわりに−八雲の予言−
入居から僅か5か月足らずの1891(明治24)年11月15日、八雲は新たな赴任地・熊本に向けて松江を旅立った。その決断に至った主な理由には、松江の冬の寒さが八雲には耐え難いものだったことや、セツとその家族を養うためにより高い俸給を望んだことがあったと言われている。松江での暮らしは1年2か月余りの短いものであった。だが、その後の八雲の創作や生き方に大きな影響を与えたであろうことは疑うべくもない。
おわりに、『日本の庭にて』の最後に綴られた一節をご紹介する。
この家中屋敷もこの庭も、いずれはすべてが永遠に姿を消してしまうことになるだろう。(中略)古風で趣のあったこの出雲の町も大きく拡張され、やがて平凡な一都市へと変貌を遂げることになるであろう。
松江の街とこの小さな庭に、16世紀の自然と夢の幸福感を見い出しつつ、その儚い行く末を憂えた八雲だったが、幸いにもこの予言は当たらなかった。根岸家の人々や、八雲を敬愛する多くの人々によってこの家は大切に守られ、松江も、そのかけがえのない歴史的景観を生かした街づくりが、今なお模索され続けている。
主な参考文献・資料
■ 小泉八雲著、池田雅之訳
『新編 日本の面影』 角川書店
■ 小泉節子著
『思ひ出の記』 ハーベスト出版
■ 長谷川洋二著
『八雲の妻 −小泉セツの生涯− 』 今井書店
■ 根岸道子著
『お濠端に暮らす』 松江北堀美術館
■ 小泉八雲記念館・図録
『小泉八雲、開かれた精神の航跡』
『小泉セツ ラフカディオ・ハーンの妻として生きて』
■ 小泉八雲記念館企画展・解説
■ 小泉凡
『小泉八雲とセツに関する基礎知識研修会・講演資料』
■ 新宿歴史博物館特別展・図録
『小泉八雲 放浪するゴースト』
■ 松江市
『史跡小泉八雲旧居修理工事報告書』
■ 押田良樹
『へルン第二の住まい −諸説に終止符を− 』
■ 引野律子
『松江市観光ボランティアガイドの会 養成講座「塩見縄手」現地研修資料』
凡例
■ 名前表記について、日本に帰化する前の時期については「ラフカディオ・ハーン」とすべきだが、帰化して日本人となった八雲の思いを汲み、引用部分以外は「小泉八雲」で統一した。
■ 引用した八雲の作品については、筆者の母校であり、八雲が最後に教鞭を執った早稲田大学の研究者である池田雅之氏の訳に拠った。
制作環境
■ LUMIX G99D, LEICA VARIO ELMARIT 12-60mm F2.8-4.0, LUMIX G 20mm F1.7
■ RICOH GRlllx 26mm F2.8
■ Apple MacBookPro, Adobe Illustrator, InDesign, Lightroom Classic, Photoshop