宮須河口との出会い
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奥出雲町との境に聳える玉峰山に端を発し、安来市西部を南北に貫いて流れる飯梨川。その澄んだ水が中海に注ぐ河口(通称「宮須河口」)には、類いまれなる美しい景色が広がっている。
江戸中期以降、飯梨川は奥出雲地域での砂鉄生産に伴う「鉄穴流し」により、大量の土砂を中海に運んできた。河口周辺に形成された広大な三角州には、今では水田の間に苺栽培のビニールハウスが並び、のどかな田園風景が広がっている
河口の先端には、中海に押し出されてくる土砂と風波との複雑なバランスにより、刻々とその姿を変える砂嘴が両岸から沖に向かって伸びている。時にそれは優に100mを超える長さにまで成長する。
5年ほど前の初秋、誰に薦められたわけでもなくふらりと自転車で立ち寄って以来、私は幾度この場所を訪れたことだろう。まさに季節を問わず、何かに呼ばれるように繁く足を運んできた。
初めの頃はしばし佇んで景色を眺めるだけだったが、やがてもっと長居をしたくなり、キャンプ用の折り畳み椅子やテーブルを携えて出かけるようになった。何故この場所はそれほどまでに私を惹きつけてやまないのだろうか。
河口には左右両岸に車でアプローチ可能だが、その地形から砂嘴に降りやすいのは左岸のほうだ。コンクリートで固められた護岸のそばには、近年安来市が整備した縦列の駐車スペースが数台分ある。短いが急な階段を降りると、半ば草に覆われたやや広い砂浜が広がり、砂嘴の付け根はその左端にある。
砂嘴の幅は時々に異なるが、私の知る限り広いところでも20mを超えることは稀だ。まさに鳥の嘴の如く、細長く内側に湾曲した砂嘴が、時には断続的に沖へと続いている。
砂嘴の先端をめざして歩き出すと、天候によって頻繁にその形状が変化するためか砂が余り締まっておらず、足をとられて歩きにくい。
砂嘴の途中にある水路は、増水時に勢いよく水が流れるので、幅は狭くとも結構深くなっていることが多い。胴付き長靴を履くか、夏なら泳いで渡るぐらいの覚悟が必要だ。
砂嘴の先端に広がる絶景
息を少し弾ませながら歩き、行ける限りの先端で足を止める。聞けばこの場所は、さる方面から「山陰のウユニ塩湖」などといういささか大仰なニックネームをいただいているそうだ。確かに無風の日には、島根半島の緑濃い山影や青い空が水面に鮮やかに映り込んで美しい。
椅子を広げて深く腰を下ろすと、そこには周囲の大半を広大な水面に囲まれた絶景が広がっている。砂嘴の正面には大根島が大皿を伏せたように浮かび、背後には島根半島の山並みが低く連なる。その右手には巨大な草食恐竜の如き江島大橋や米子空港の管制塔が遠望される。さらに東へ視線を移すと、視界がよければ美しい大山の全景を拝むことができる。
西に大きく振り返ると、広い水面の彼方に嵩山と和久羅山の特徴ある稜線が続く。南にはひときわ高く星上山と京羅木山が肩を並べている。頭上には全周に広がる青い空と、緩やかに形を変えながら流れゆく白い雲。
しばらくすると、次第に身体が波の動きに合わせてゆっくりと揺れ出すように思えてくる。まさに湖上を独り漂っているかのような感覚である。この感覚は以前にどこかで味わったことがある。そうだ、シーカヤックで波間を漂っている時の、あたかも自分が海と一体化したかのように感じるあの感覚なのだ。おそらく、自分の視線の高さが、限りなく水面と近いことがその理由の一つだろう。
そんな不思議な感覚を楽しみながらひとしきりこの絶景を眺めたら、保温水筒に詰めておいたお湯でコーヒーを淹れる。やさしく規則的な波の音が心地よい。時折、遠く米子空港や美保基地から、発着する航空機の排気音が聞こえてくるのはご愛嬌。
暫しこのまま自然の音に耳を澄ませるもよし。イヤホンでお気に入りの音楽を聴くもよし。あるいは日長読書に勤しむもよし。開放感に満ちた景色の中で、風に吹かれる喜びに浸りながら。
飯梨川が創り出した貴重な気水域環境
私以外にも、それぞれの理由でこの場所に通う人たちが少なからずいる。例えば風の強い日には、しばしばウィンドサーフィン、時にはカイトサーフィン、ウィングフォイルといった目新しいウォータースポーツに興じる人たちの姿を見かけることもある。車のナンバーを見ると、県内や鳥取のみならず、岡山や広島、愛媛などからの来訪者も多いことに驚く。おそらく風向きによっては、これらのスポーツに好適な風や波が立つよいゲレンデなのだろう。
一方、波の穏やかな日には静かに釣り糸を垂れる人や、沖合の砂嘴の周りでシジミ採りをする人々を見かけることもある。
中海の貝と言えば、昭和20年代までは赤貝(サルボウ貝)が全国有数の漁獲量を誇っていた。しかしその後の淡水化事業によって湖の環境は大きく変わっていった。特に湖底の貧酸素化が進み、赤貝をはじめとする中海の漁獲量は一気に激減してしまったのである。
お隣りの宍道湖は今も変わらずシジミの漁獲量全国一を保っているが、中海は湖水の塩分濃度が海水の約2分の1と高いため、基本的にヤマトシジミは生息できない。
しかし飯梨川は、山からの豊かな栄養分の溶け込んだ真水と土砂を河口部に供給し、中海では稀なシジミの生息に適した環境を創り出しているのだ。
あらためて近場の水際に目をやると、無数の小さな黒い点が見えてくる。近づいて手に取ると、殻だけのものが大半だが、小ぶりだが身の入ったものに当たることもある。気がつけばいつの間にか靴を濡らしてしまっているのが困りものだが。
ある時は幸運にもシジミが密に潜んでいる場所に遭遇し、30分ほどで持っていた小さなビニール袋が一杯になった。翌朝の我が家の食卓にシジミ汁が並んだことは言うまでもない。
今年もいよいよ冬が近づいている。時雨模様の日が増え、北西の冷たい風が強く吹き付けるようになってきた。せめてこの冬は小春日和の多いことを願いたいものだが、また春が来たらきっと、お気に入りの椅子を持って出かけよう。
もう一度あの無上の開放感と、湖上を漂うかのような不思議な感覚に浸るために。